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うつ病11年の振り返り

とある組織から言論統制を受けてます!

独身中年男性、狂う。うつ病11年を振り返って

はじめに

このページは25歳でうつ病になり、2023年の7月26日にうつ病罹患から10年を迎える独身中年男性の記録である。無能、社会不適合者が以下に出来上がったか、どのように狂うのかの記録でもある。

プロフィール

このプロフィールは2024年のものである。

  • 年齢 : 36歳
  • 身長 : 175cm
  • 体重 : 80kg
  • 職業 : ハム(障がい者雇用枠)
  • 年収 : 0円
  • 貯金 : 約10万円

2013年まで

2010年に大学を卒業し、H情報通信工業の会社に就職。地域に支店を持ち、従業員350名を超えるので一様、大企業になる。

家庭の事情などを考慮し選んだ会社ではあるが、サービス残業と長時間労働そして、パワーハラスメントを受けていたため、3年かけて体調が悪化していった。リーマンショックの影響もあり、短期離職はダメ! 石の上にも3年! と意気込んで仕事をしてた。

しかし、深夜2時まで残業し、雪道での通勤のため朝は5時に起床し、出勤を続けたりして思考力がさらに低下した。

会社で寝泊まりしたほうが良いと思うことがあったが、開発室のある別館は倉庫を改修した建物であるため、非常に寒く寝ることは不可であった。たとえ意識がない夢の中でもトラウマで、パワハラ発言が続き辛かった。

君の年齢なら2日くらい徹夜しても平気 パソコンみたくフリーズするな、答えろ。 2時まで残業したけど、0時までしか残業をつけるな。 などなど…

この様な勤務状況が続き、残業代も手書きの帳簿とExcelの帳簿がズレてもお構いなし。管理職であるはずの課長も二重帳簿を黙認していた。また、この課長はパワハラがあったことも把握していなかった。

なぜなら、私の働いていた場所が別館の開発室であったからだ。朝礼は本館で行うので朝顔を合わせる以外では会うことはない。どんなに罵詈雑言を浴びせられても、助けてくれる人はいなかった。

同期はいたが私だけ別館開発室という監獄に押し込められ、周りは外注さんとパワハラ先輩社員ばかりで、針の筵(むしろ)であった。

2013年7月

急に「自分は無能、仕事ができない。フリーズ人間だ。」という反芻思考が駆け巡るようになった。体にも数値に表れはじめた。

最初は微熱であった。37℃台の微熱が一向に下がらない。

休みの日に体を休めても下がらない。次は別途から起き上がることが困難になった。 不眠はもう1年以上続いていたが、とうとう体が言うことを聞いてくれない。起き上がるのに1時間はかかるようになった。

流石にこれはまずいと病院に駆け込むが、内科では異常なしとのことだった。(肝臓の数値は体質で注意されたが)病院で診てもらっても異常なし。

しかし、体は辛い、心もしんどいので心療内科を受診しようとする。だが、S病院は数ヶ月先まで予約で診れないとのことで諦めた。

その現実を受け止めきれず私は倒れ込んだ。心配した家族が別の病院で飛び込みで診てくれるところを探してくれた。K病院で受診しているときは自然と涙がでて止まらなかった。

7月26日。私は精神科の開放病棟に入院した。体重や身長を測って、薬を飲み、寝る。今思い出せるのはこれくらいしかない。ちなみにこの時の体重は67kg。後々、悲惨な体重になるとは思わなかった。

K病院には3ヶ月入院した後、リワークの施設があるX病院に転院する。医療費が1割負担になる自立支援医療が適応されるまではお金が飛ぶように消えた。リワークで復職支援を受けるが、心はすでにH情報通信工業からは離れていた。

うつ病、つまり私は 「廃人、社会不適合者」 になったからもう働けないと思ったからである。

2014年

2014年になってもリワークに通所していた。だが、調子は一向に改善せず、つらい日々が続いていた。

2014年5月

働いていたH通信工業社から退職届を書くように言われ、そのまま自主退職というかたちになった。

傷病手当金は本来退職後ももらえるのだが、H通信工業社はその手続はしてくれず、貯金で通院を続けるしかなかった。奨学金の返済もあったため、余裕はあまりなかった。

2014年10月

F県のジョブカフェを利用し、トライアル雇用と言う形で、ステンレス製品の製造を行うT社に入社する。病気のことも事前に伝えての入社。再発に怯えながらも、お金がない焦りで社会復帰をした。

職種は図面作成であった。ステンレス製品の展開図を製図することである。未経験の職種ではあったが、PCが使えることだったので大丈夫と判断されたようだ。しかし、教育担当が忙しさのあまり、離席している事が多く、聞きたいことも聞けない状況が続いた。また、図面は手書きと電卓で計算することが続いた。

PC作業とのことであったが、最初は手書きでということ。教育を受けずにひたすら手で計算は難しかった。仕事はたまる一方で、聞いて前に進めることもできず、次第に周囲からクレームが増え、再度うつ病になった。完全な焦りによるメンタルダウンである。

結局、そのまま逃げるように自主退職。1ヶ月持たなかった。 完全に社会不適合者になった。

2014年11月

X病院のデイケアに通院する。リワークは基本的に職がある人向けであるため、利用できなかった。

2014年12月

地元の名産である里芋、その収穫のアルバイトを始める。きっかけは主治医の勧めである。A型作業所などの責任や労働が軽いところからやり始めようとのアドバイスであった。障がい者のレッテルを自分で貼ることができなかったため、アルバイトを選択しただけだ。

里芋の収穫は大変であった。ビニールハウス内の作業ではあるが、積雪の多い地域なので極寒だった。トイレもなく困る。次第に体に不調が出始めてのであった。

2015年

まともに働けない罪悪感でスタートした年である。

2015年3月

里芋収穫のバイトを辞めた。冬になる前に土ごと貯蔵してた里芋が無くなりそうだったので良いタイミングであった。

同時期からF県の若者サポートステーションを利用を開始する。引きこもりなどの重度の社会離脱者が行くものであると思っていたが、母から進められたので利用開始。いくつか行事やレクレーションに参加するも、自分としては感覚的に合わなかった。

2015年6月

若者サポートステーションの隣りにある、障害者職業センターを利用することになった。X病院は有識者でないと参加できなかったが、障害者職業センターはできたからである。そこで、リワークを開始。ピッキングやパソコン作業などをして就職に向けて歩みだした。

2015年10月

就職を開始した。すると製版作業を行う会社に採用された。しかし、工場見学や中の人などから感じる違和感で電話口で一度、就職を断ってしまった。それを聞いた、障害者障害者職業センターのカウンセラーが外堀を埋める形で説得してきた。ジョブコーチもつけるなどの支援もすることのことで電話をかけ直しその製版作業会社に就職した。

製版作業とはシルクスクリーンプリントのための板である。穴の空いた部分に染料を流し込んで染色する。畳ほどの大きさがあり、持つのも大変で光で薬品を固めて作成するため、一日中暗闇の中で作業する。

ジョブコーチの支援もあり、とりあえずは順調でソフト・ランディングな就職はできた。

2016年

ジョブコーチの来社もだんだん少なくなり、1週間に一度から、1ヶ月に一度へ。製版作業の会社就職して半年が立った頃にはこちらから連絡しないと来てくれない状態になった。

この頃から、最初に会社側にお願いしていた配慮がなくなっていった。K病院の精神通院も1日かかるものであったが、上司から「半日で頼む」「午前中までに来てほしい」…「2時間で来い」と変化していった。

また、親会社からの無茶な注文に苦しめられた。物理的に40枚板を作るのが限界で、保管する乾燥室もいっぱいなのにそれを超える数を求められる。

また、上役は親会社の経営陣の親類であるにも関わらず。仲がわるく、トラブルばかり。無茶な注文の鵜呑みで帰ってくるし、意気込んで行っても丸め込まれて帰ってくる始末。

2016年12月

ボーナスを貰えるようになったころ、親会社の経営者(製版作業の会社の社長でもある)人から衝撃の一言。

「お前たちの会社は赤字だが、親会社は利益はでてる。仕方ないけど、お前らも賞与出してやる」

とのこと。そもそも親会社が板を安く買い叩いているから、利益が赤字なのにそんな言い草はない。

ネットの情報である「モ○ベーションアップ株式会社」のポスターがある会社はブラックである。とのことであったが、本当であった。

不信感ばかり募り、勤労体型を自身で見直すと、残業代の付き方にもおかしな点があった。17時に定刻で、20時まで働いているのに、残業時間がズレている。会社の経理に聞いてみると17時からの一時間は休憩時間とのことであった。

実際は休まず、働き詰めなのに…

2017年

身体的にも追い詰められてくる。壊れた水槽を直してもらうのに無駄な相見積もりなどで1年以上壊れたままの設備で作業しているのがしんどい。

2017年3月

とうとう会社で動けなくなる。その場でうずくまり泣き出してしまった。そのまま、X病院の精神科病棟に入院する。

2017年7月

会社から自主退職するようにとのこと、退職届をかけと言われた。その間、傷病手当金の申請すらしてくれず金欠に陥った。泣きながら書いた。

2017年8月

X病院から退院する。主治医や社会福祉士のアドバイスや説得を受けて、A型作業所からやり直すことを決めた。

そこで問題発覚。製版作業の会社から離職票が送られてこないのであった。雇用保険の申請もできず、露頭に迷いそうになるも、なんとか郵送してもらうことに。うつ病再発による離職ということで雇用保険は待機期間なしで支給されるようになった。

2017年10月

やっとA型作業所で働くことができるようになる。各種申請や書類ができるのに時間がかかったのである。A型作業書のO社はスーパーに出す惣菜や野菜、鮮魚などの商品の袋詰、店舗の掃除、お墓の花束づくり、大豆の真空パックづくりなど多様な作業を行ってる。

2018年

A型作業所にもなれ、1日4時間の勤務も安定してできるようになった。外部の協力会社である、スーパーでの品出し補助もするようになり、1日6時間働く日もあった。

体調も安定し、業務外にO社を手伝うこともあった。

得意のパソコンについてのトラブルである。後にパソコンの入れ替えではネットワーク構築までした。

2019年

心は平穏のつもりでも、両親の高齢化と定年が心配で障害者手帳3級を取得する。さらに障害年 金も考えるようになり、ここで、障害110番を利用し社労士さんと知り合うことができた。

初診のK病院の記録や私の日記を活用し、年金申請の準備をしてもらった。ただ、両親の障害年金に対する、嫌悪感や偏見があり申請までには至っていない。とりあえず、あとは主治医の診断書があればいつでも申請して認可される状況にもっていけたので良しとした。

2020年

道の駅の商品パッケージデザインなど、更に多岐に渡る仕事に携わっていった。自分は無能でないという根拠のない自信がついてきた。

2020年11月

F県職員の障害者枠の公募があり、挑戦してみてはと支援員さんからアドバイス。

思い切って受けてみる。一次試験の一般教養ではわからないところは鉛筆を転がして答えた。すると、運良く一次試験はパス。

2020年12月

F県職員の障害者枠の二次試験は作文と面接。作文は自分がこれまで行ってきたことを素直に記述。パソコンを中心にできることを増やしていった、この経験はA型作業所で磨かせてもらったこと。学んだことを福祉などで活用したいと書いた。

面接は自分の病気であるうつ病は安定しており、服薬は夕方一回で診察は6週間おきになっていると伝えた。

二次試験から数日後。運良く合格!!

2021年

晴れてF県職員の障害者枠で採用された。事前面談で

「電話は苦手、出れても内線くらい」

など、しっかり苦手な作業や、配慮してほしいことについて伝えた(伝わってるはずだった)

2021年4月

A型作業所のO社を退職し、F県職員として働き始めた。お金に関する部署である。

しかし、困ったとことに引き継ぎがない。引継ぎ書もない。前任者は再雇用を終えた老人で退職済みであった。

ファイルもグチャグチャ。マニュアルはあったが令和2年 〇〇マニュアルがあっただけ。

一般化・標準化ができてる感じではない。一様、新採用だったのでトレーナーという上司はいたが、マニュアルとの齟齬があり苦しんだ。

自分は聞いて覚えることが苦手だとはこのとき初めて気づいた。

マニュアルで確認するも書いてないことのほうが多いくらいで、毎日ドキドキしていた。

また、**「電話は苦手、出れても内線くらい」**など苦手なことを伝えてあったのに、電話対応と受付対応を求められた。最初は一番窓口から遠い席なので配慮してくれるんだろうと思ったら、ただの前任者がそこだったから空いた席に座らせてるだけだった。

2021年7月

年次作業の大きなイベントが有った。しかし、資料がない!

課長も何も把握しておらず、仕方がないので過去のExcelの残骸を一つ一つ分析しながら行った。他課の人にも指示を出さなければならず、非常に辛い体験だった。

マニュアルもない年次作業とか流石に危険すぎる。

2021年8月

丸投げ課長が私用の怪我で3ヶ月も入院。また、同じかのS主任からパワハラ的な発言を受け始める。

2021年10月

S主任からのパワハラ発言、酷い引き継ぎなどストレスが爆発してしまう。S主任からは下記のような発言を受け続けた。

歩くのが遅い 君はモンスター 日本語ができてない X病院は公務員の墓場、転院したほうが良い

とうとう、耐えきれなくなった。職場のストレスチェックで高数値を叩き出した。

F県内の障害者相談支援員に相談もした。

職務専念義務を利用し指定された病院で診察をうけた。

うつ病がまた再発した。4度目のうつ病だった。

ここから、私は完全に壊れてしまった。狂ったのだ

2021年11月

休職する。

2021年12月

S主任より下記のLINEが送らてきた。私は恐怖で怯えた。これほど人が恐ろしく感じたことはない。Aさんは私のことである。

LINE1通目

元気してるか? 僕らの仕事は軽めだし、和気あいあいとしているので、あまり気にしなさんな これは、ずっと僕が見てきた素人の客観的な意見な

一般的にも、いきなり事務的な能力やコミュ力が上がるわけではないから、 それはAさんの一個性やと思いねの。

できるのは傷を一時的に忘れることぐらい。 休みをぶり返すことの方が心配やわ。

だけど、僕らやお客さんに対しての思いやりや寄り添う気持ちだけは持って 帰ってきて欲し> いとは思う。 (優しくなれと言っているのではないよ既に優しい。)

じゃなきゃ、どこの職場に行ったとしても、 人間関係を築いていくのは難しい」と思う。 また、F県職員はみんなレベル高い。 劣等感には負けるなよ。

最後に、みんなの考えと違って、Aさんが異動しないこともあるし、 さらに2か月しかないからいきなり厳しくすることは理解してな。

誰が残ってもフォローできないし、その方がこれからのさんのためにもなる。 Aさんにとっても、鼻っから新人にぶち 抜かれるよりはマシだろ?

2022年

体調は最悪、ベットから起き上がるですら恐怖だった。

2022年3月

S主任より。LINE2通目。

元気してるか?

今回の異動で、僕とXさんとY主任、Zさんが居残り組です。

4月から激務で すがどんなに怒られようが首にならないよう頑張り抜きます。

あー、Aさんは、 僕から見たら、鬱病とかでなくて、 社会適応力「話す、聞く、読 む、書く」力が足りないんじゃないかな?

K課で働いてるときは、鬱的な症状はないです。

あと、窓口だけが苦手なのではなくて、人間関係を構築するのが苦手なのは感じた。 だから、体力が回復したから復帰ではなくて、それらの力だけはつけて復帰してな。

Aさんの一度きりの人生やで、時間の浪費はこれ以上、したらあかんよ。

違う分野でリスタートするなら早めやで。

何事も経験あるのみ。

経験積めない、人と話せないって判断したらちゃんとけじめ だけはつけねの

でも、自信を持ったAさんなら大歓迎だ

LINE3通目。

こちらが読む前に、Sさんがメッセージの送信を取り消しました。

ちなみに私は上記のLINEに関しては 一度も、一言も返信はしていない。一方的に送り続けてきた。

2023年

記述できる次期が来たら書きます。現在は言論統制を受けているためかけません。
(現在のところ、今の組織を退職することになったら書きます。)

2024年

記述できる次期が来たら書きます。現在は言論統制を受けているためかけません。
(現在のところ、今の組織を退職することになったら書きます。)

今後について

自分の発達障害の傾向が強まったため、
合理的配慮を得やすくするために自己理解を深めていく予定です。

自分の特性(うつ病と発達障害について)

**ASD(自閉症スペクトラム障害)**の傾向が強いです。
また、聴覚過敏がひどく悩まされています。
電話がとても聞きづらいです。